土曜日の午後、先月から高校生になった長女に、義母のお得意の料理の一つで、朝サラダの上に乗せて食べるととっても美味なスライス玉ねぎの酢漬けの作り方を教わり、自分でも作ってみました。ほんの5年程前は、まだ小学生で、夕食のお味噌汁だって毎日ぼくが作ってましたが、今では料理の方は完全に敵わなくなってしまいました。
ぼくが小学生の頃は、学研の科学と学習という雑誌を毎月楽しみにしていたのですが、その中にあった、「ヤングとオールド」というコラムのことを、(多分強く共鳴したからでしょうけど、)50年も経った今でも、よく覚えています。その要旨は、人間は若いうちは、柔軟で、新しいものもよく受け入れることができるが、歳をとると、だんだんと頭が固くなり、保守的になって、自分の経験したことのない新しい出来事に対し拒否反応を示すようになる。だから、未体験の事柄を面白がることのできる人は、実年齢に関係なく、若いのだというような文章でした(背景にたしかチンパンジーだったか、ゴリラだったかの写真が使われていて、2001年のオープンニングのように妙に印象的でした。)。その発想って、今考えると、あの頃より、今の方がずっと若いと謳うディランの My Back Pages と同じ指向ですね(原詩は、Ah, but I was so much older then. I'm younger than that now. です。)。
せっかくなので、前回も書かせてもらった論語の「耳順」の話に戻ると、みんないい加減歳をとってきたせいか、自分のごく身近な周辺でも、新しい事象に対し、拒絶的な態度を採る人が増えているような印象を持っていて、そこにその人の精神の柔軟性や、好奇心の減退を見せつけられたように思ってしまい、それがまるで避けられない運命でもあるかのように自分にも響き、そして、萎えてしまうことが多くなったと感じています。
そんなとき、思想を「五十而知天命、六十而耳順」と年齢で表現した孔子の言葉がぼくを捉えました。オールドと呼ばれるような年齢のもたらす自分の成熟が、「耳順」、つまりは、自分の以外のものに開かれるなんて、なんて素敵なのでしょう。そこには固さはありません。しかも、只開かれているというだけでなく、年齢が、歳を重ねることが、開かせたというのです(その前に、天命を知った、つまりは、自分の柱があることが、前提になっているのでしょうけれど...)。
ちょっと前まで、年齢を身体だけで考えていたことに、ただ、恥いるばかりです。
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